特別抗告申立書
 
申立人    河村昌弘
 
 東京高等裁判所平成13年(ラ)第1973号 裁判官忌避申立事件(原審東京地方裁判所平成13年(モ)第11249号 本案・東京地方裁判所平成11年(ワ)第13320号)につき同裁判所が平成13年12月20日付をもってした下記決定の送達を同年同月28日に受けたが、民事訴訟法第336条1項の理由があるので、特別抗告を申し立てる。
 
    原決定の表示
一 本件抗告を棄却する。
二 抗告費用は抗告人の負担とする。
 
    特別抗告の趣旨
原決定を取り消し、さらに相当の裁判を求める。
 
    特別抗告の理由
追って理由書を提出する。
 
  平成13年12月28日
申立人     河村昌弘
 
 
 
 
 
 
 
 
 特別抗告理由書
 
 最高裁判所 平成13年(ラク)第1053号特別抗告事件について、申立人は以下のとおり抗告理由を提出する。
 
 平成14年1月28日
                      申立人    河村昌弘
最高裁判所 御中
 
 特 別 抗 告 の 理 由
 
1 原決定の憲法違反
  原決定は憲法76条3項、32条に違反するものである。以下述べる。
 
2 憲法76条3項違反
 憲法76条3項は「すべて裁判官はその良心に従い」とある。良心なるものに裁判官が拘束されるなどと規定されるとする規定は他国にはあまり見られないものである。まず、この規定を解釈するにあたっては、それがなぜなのかを考えてみなくてはならない。良心とは国語学的には、「自分の本性のなかにひそむ欺瞞・打算的行為や、不正直・節実・ごまかしの念などを退け、自分が正しいと信じる所に従って行動しようとする気持ち」などとされる。確かに裁判という神聖な行為においてはこのような良心が機能しなくてはならないであろう。
 とはいえ、この意味での良心は主観的なものであり、逆に裁判官の独立を脅かすしかねないものであることも言うまでもないであろう。良心というものは主観的なものであることは否めないのであって、もとより法律になじみにくいものであるのも確かなことである。そのため、76条3項の「良心」については、諸説あるも、主観的な思想、信念、世界観などではなく、裁判官としての職業上の良心、職業倫理をいうと客観的に考えるのが有力な見解となっているのは周知のとおりである。
 だがここで考えなくてはならないのは、先ほども述べたように、なぜ、このような主観的な言葉である「良心」が我が憲法にわざわざ記載されているのかということである。
 それは、我が国の島国、村社会根性で、長いものには巻かれるというような国民性が、かって悲惨な戦争を引き起こしたことに対する反省なのである。戦前裁判官は、あたかも、ショークスピアの「ベニスの商人」で、裁判官がシャイロックに肉1ポンドを切り取るという契約は有効であると断言したかのように、行政府の暴走を追認こそすれ、止めようともしなかったのである(なお、ドイツの法学者イエーリングは、その著書「権利のための闘争」の中で、肉1ポンドを切り取るのを平然と有効とするような法の解釈の仕方を厳しく批判している)。このような衆愚に流されたおかしなことが再び起こることがないように、あえて裁判官は概念主義を離れて、法のあるべき原理を探求する役割を担うべきであるということを、あえて憲法は「良心」という語をもって裁判官に命令しているのである。まさしく、これは、憲法前文において「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないやうにすることを決意し、」と記載し、立憲主義を守らんとする日本国憲法の憲法保障の現れなのである。
 とするならば、良心を裁判官としての職業上の良心、職業倫理を言うとするにしても、それは無内容なもの考えてはならないのであって、法のあるべき原理を探求する役割・態度、少なくとも字義通りの職業倫理と解さなくてはならない。
 裁判官は特別職の公務員として、一般職の公務員のように、職務専念義務など(国家公務員法101条)のようなものを課されていない。が、これは裁判官は何をしても良いと言うことでは無論なく、憲法という高次の法に定める「良心」に拘束されればゆえということなのである。
 そして、裁判官の「良心」=職業倫理に、裁判を真面目にやることが含まれることは疑いがない。期日にきちんと出席して、当事者の提出した記録をきちんと検討し、当事者の主張に耳を傾け証拠調べを行うことは当然であり、法のあるべき原理を探求する態度として、憲法・法律うんぬん以前の問題である。
 「裁判官のなかには正義感に燃えて仕事をしている人もたくさんいる。大きな事件だからこそ、とことんのめりこんで、夏休みも返上で汗を拭き拭き判決文を書いている人もいるのです。でも、その一方で、夏休みには必ず海外旅行に出かける裁判官もいる。そういう意味では個人差があるといっていいでしょう(元裁判官)」(「困った裁判官」 宝島社 163頁)。
 厳しいと甘えたことを言う裁判官もいるかもしれないが、裁判官は税金より多額の報酬を受け取ることを許されている高尚な職業なのである。
 原決定は、裁判官のピンチヒッターを立てなくてはならないようないい加減な期日を指定しても、当事者に厳しく裁判所に甘い期日指定をしても、記録をきちんと読まなくても、また、旅費などの事務手続きが面倒くさいという理由での証人の採否を決定しても、そんなことは許されるとする。しかし、これは先程述べた「良心」=職業倫理に疑いなく反するものである。
 これらはすべて、言うなれば勤務態度不良である。勤務態度不良が裁判官といえども許されないことは、裁判所法49条も懲戒事由として、「職務を怠った場合」を挙げていることより、当然であるが、こんなことは法律以前の問題である。そして言うまでもないが、このような事由は、裁判官の主観を問題にするのでは全くなく、客観的に職務を真面目にやっているかどうかを問題とするものである。裁判官の独立などとは全く関係のないものである。
 憲法76条3項の「良心」とは、裏を返せば、まさしく、このようないい加減な職務を行ってはならないということを規定したものであり、本件高橋利文裁判官のような場合を想定したものである。このような勤務態度不良が立証されれば裁判官は当該職務からはずされて当然なのである。
 このようなことを考慮せず、勤務態度不良を漫然と訴訟指揮の当否とした原決定には76条3項に違反するものである。
 
3 憲法32条違反
 憲法第32条は裁判をうける権利を保障している。しかし、これは、裁判を受けさえすればいいというのではなく、「公正」な裁判を受ける権利と解するべきである。
 なぜなら、ただ裁判という名の手続きがなされさえすれば良いとすれば、到底、基本的人権の尊重を建前とする憲法の下、裁判を受けたとすることはできないからである。
 学説においても、「ただ単に裁判を求めることができるといったものにとどまるのではなく、公正な裁判のための、裁判所の構成や訴訟手続きに対する一定の要求を含むものとして把えられなければならない」(浦部法穂教授の見解 樋口陽一、佐藤幸治、中村睦男、浦部法穂「注釈日本国憲法(上)726頁)「憲法32条は、裁判を受ける権利を保障するに相応しい内実をもった裁判制度の構築を要求するものであり、その意味で、裁判を受ける権利の保障は、国に対しそのような内実をもった裁判制度を整備し、それを通じて国民に司法的救済を与える義務を負わせる者と考えねばならない」(竹下守夫教授の見解 兼子一、竹下守夫「裁判法(第三版)146頁」とされているのである。
 このようなことからして、裁判の判断者の公正も憲法32条の当然要請するものである。ただ、この判断者の公正については、ともや主観に流れると裁判の独立に悪影響を与えかねないものでる。そこで、これは、判断者の主観的傾向ではなく主観を離れた離れた客観的なものとして捉えられなければならないことになる。
 とは言え、仮に、判断者(現行では職業裁判官)がその職務を真面目に執り行わないならば、上述した判断者の客観的な公正に違反することは疑いがない。
 とすれば、少なくとも32条は裁判官が真面目に勤務することを要求しているのである。いいかげんな勤務をするような裁判官の裁判では裁判を受けたことにはならないのである。
 そして、このようないい加減な裁判官を排除して、裁判を受ける権利を守らんとするのが忌避制度であり、忌避制度はかかる観点から捉えられなければならない。
 しかるに、原決定は、裁判官が不真面目で勤務態度不良の事実があるにもかかわらす、漫然と「訴訟指揮の当否」という言葉を金科玉条のごとく持ち出し、忌避制度を骨抜きにするもので、憲法32条から見て、許されない
                                   以上
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