阪神大震災   
                       河村昌弘
 
 私は本年3月31日まで、西宮市に在住し、神戸市の企業に在勤していた。
 阪神大震災の体験の一部をお伝えしたいと思う。
 
 平成7年1月17日午前5時46分、私は突如、頭をガツンと殴られた。眼から、火花が散った。強盗か、寝込みを襲われたと身構えた。と思いきや、重いベットがするすると滑っていき、私は壁とベットとの間に落ちた。壁に恐ろしい勢いで叩きつけられたのだ。世界が左右に揺れた。地震だ.....。
 東京に生まれ育った私は子供の頃からずっと、大地震の来るべきことを聞かされていた。まさか、関西で出会うとは。あちらこちらでもののひっくり返る音がする。体じゅうにありとあらゆるものが降ってくる。私の住んでいたのは6階である。ビルに亀裂が入れば、助からない。ビルよ、もちこたえてくれと祈った。
 やがて、揺れはおさまりあたりは静寂がもどり真っ暗になった。
 夢かまぼろしか。床にころがる障害物をどかしながら窓へ向かい、そとを見た。あちこちから、火の手があがっていた。街灯はすべて消えていた。
 廊下の方で声がしていた。同僚が安否を確認していた。廊下へ出るドアは、床に散乱した物体が邪魔になって開かなかった。足で蹴飛ばして、何とかドアを開けると、窓硝子が割れており、破片が5m先まで飛び散っていた。
 「裏で家の中に人が閉じ込められている。手を貸してくれ。」と応援の要請があった。裸足のまま割れた窓硝子に注意して1階までおり、手伝いに向かう。しかし、既に裏の家は炎に包まれており、成す術もなく見ているほかなかった。家の中には、生きている人がいることが判っても、手の施しようはなかった。その後、ビルより消火ホースを引っ張ってきて、3時間にわたって放水したが、家が全焼するまで火は消えず、延焼を食い止めるのがやっとであった。
 国道2号線に面して私は住んでいたのであるが、その2号線に沿って建つ木造家屋は2階建てのものが1階建てに変わっていた。人力で救える所は、私も救出にあたったが、残念ながら生きていた人はいなかった。家族が下敷きになっていると血眼になっているひとがあちこちにいた。
 消防車は断水で水がでないただの箱になってしまっていた。警察には、「全力で頑張っております。御用の方はノートに記載しておいてください。」との張り紙があり、だれもいなかった。
 私の社宅の屋上からは、長田町の付近から立ち昇る黒煙がみえ、倒壊した阪神高速道路、ハーバーウェーが見えた。あと何時間か後には、私はそのいずれかを時速100キロ以上で社有車をとばしていたはずであった。しかし、特に何も感じなかった。未曾有の災害のなかで人間は虚無的になる。
 こんな状況にも関わらず、テレビでは、死者30人の報道が流れていた。公的機関の対応はきわめて悪かった。私も、かれらのいわゆる役所仕事ぶりには憤りを感じた。(中には非常時ということで気をきかせてくれる人もなかにはいたが。制度の問題というよりは職員の人間性がもろにあらわれていたと思う。)
 まず、なぜ自衛隊がすぐこなかったのか。災害と言えば自衛隊である。特に、一見して未曾有の大災害である。知事が派遣要請するのは当然である。。仕方のないことであるが、政府職員に良識があれば、事態は変わったかもしれない。何しろ、首相官邸に自衛隊の派遣を電話で要請したした国会議員がいたのであるから。被害の全容がわからないという話もあったが、一見しただけで3千人は死亡したとわかる災害であったのである。なぜ、被害の詳細を知る必要があるのであろうか。なぜ情報の正誤を確認しようとしないのか。お上意識が物凄く強いのが日本の特徴である。偉い人が言ったことがなによりなのであろう。誰が言ったことかではなく、どんな内容かを検討すべきであるのだ。
 次に救援物資の問題である。何処で何が配付されているのか。全くわからない。宣伝が行われていないのだ。自ら救援物資を下さいとも言いにいかず、とうとう私は配付をうけたことがない。私自身、独自のルートで、日常物資はなんとか手に入れることが出来たので、良かったのかもしれないが、山のようにもらってまるもうけという人間もいて、疑問を感じた。(うらやましいということではなくて、必要なときに的確に配付が行われないことに憤りを感じる。私だって、物流が回復するまで、大変だったのだ。)情報がなく苦労した人(3日間、何も食べていない)も見聞している。これは、災害に対して、的確な情報が送られていないということである。通信手段が崩壊した、未曾有の大災害であったというのは言い訳にはならない。非常時にはマニュアルはない。街宣車で巡回することだってできるし、ビラの配付だって出来るのだ。すぐやった自治体と、そうでない自治体があった。因みに、首長が号令をきちんとかけたところがしっかりしていた。芦屋市の対応はよかったとの風説を聞いた。何がどこでどうなっているのか、的確な情報の送付が非常時の政府の役割のはずである。情報が政府に集中してもそれが的確に流通しなければ、全く意味がない。多くの人が物流が回復するまで、飲食料を手に入れることが難しかった。私のお客さんの中にも、神戸東灘区にある某国家公安委員会指定団体(Y組)に助けてもらいにいった人もいる。
  震災で私の印鑑預金通帳が行方不明になってしまった。再発行に郵便局へ行った時のことである。
  「印鑑がないとおろせません。」
  「拇印ではいけませんか。」
  「三文判で結構ですから、持ってきてください。」
  「そないゆうたかて、こんなときや、どこにも売ってへんで。三文判なんか意味ない
  やあらへんか。なんとかしてえや。」
  「あかんもんはあきまへん。」
 局員と問答を続けると、面倒臭そうな顔をして課長に相談に行った。別の場所に呼ばれ、課長に相談することとなった。出てきた女性の課長と相談すると、あっさり、連帯保証人を付ければよいということになった。先程の局員はおそらく制度を知らなかっただけであろうが、頭ごなしにでなく、調べてみれば良かったはずである。(めまぐるしく情報が行き交う中で大変ではあるが。)もし、私がごねなかったら、ほったらかしになったのであろうか。
  更に、仕事で車を運転している時に次のようなこともあった。
  「この先の郷免町が家なんやけど、通してくれへんやろか。」
  「だめです。」
  「なんでですかな。」
  「昨日から規制が始まったのです。」
  「そんなの昨日の今日やし、知りませんよ。すぐそこで特に混んどるわけやないし、
  今日だけ通してくれへんやろか。
  「だめです。きまりです。」
  その人は、沖縄県警の応援の人であった。
  次に少し回り道をして、もう一度別のお巡りさんにチャレンジ。今度は兵庫県警である。
  同じ問答を繰り返すと、特に道路も混んでいないし今回だけはよい、明日から気をつけてくれとのことであった。概して、警視庁をはじめとする他の県警の人は、杓子定規あって、兵庫県警の人は融通がきくことがおおかった。やはり、被災者同士の連帯感(皆でなんとかやっていこうや。)が働くような気がする。融通をきかすのが必ずしも良いことではないが、規制の目的を離れて、手段が一人歩きするのもどうであろうか。
  公務員は法令を遵守しなくてはならない、しかし、非常時においては法的対応など待っていられない、そのギャップをどう埋めるのか、実際に現場で対応する職員にかかっているし、また、制度自体が非常時には融通がある程度きくようになっているものである。無理だ、出来ないでなく、なんとかしようという方向で動いていくべきである。また、多くの公務員が懸命に努力していたのは事実であるが、所謂民間企業の人々は震災のその日から、厳しい競争世界にさらされるのだ。私のお客さんであったある企業では、地震の当日から、ライバル会社が、あの企業はもう地震で駄目だということで、取引先に攻撃をしかけてきたということである。政府の努力不足といわれてもしかたがない。
  その後、復興にむけての経済活動の建て直しの一翼を私は担ったわけだが、その苦労は機会があったらお伝えしよう。(本当はなによりも生きていくという意味において重要なのだが。)前任者のミスガ原因で発生してしまった、地震による14億もの損害を、私の責任で処理しなくてはならなかったのだ。
  そして、阪神大震災のことについて強調したいことがひとつある。被災地の復興は市民が行っているのであり、公的機関が行っているのではないということである。
  また、断水で、風呂はつかえない、トイレは流れない。こういう状況は、テレビでは流れなかった。報道機関の流す情報というのは、ニュースになるものだけであり、片面的であることを、テレビのみで震災を知っている人は注意してほしい。
  ただ、東京に戻ってきて、驚いたのは、大概の人が、自分とは関わりのない世界の出来事と考えていることである。
 

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