平成18年(行コ)第180号損害賠償請求事件
(控訴人河村昌弘、被控訴人江戸川区)に係る
意見書
 
2006年9月25日
 
医学博士
日本禁煙学会理事
松崎道幸
 松崎は本年5月に江戸川区役所を訪ね、喫煙室とその周辺の状況を視察した。その結果、以下の所見を得た。
@ ガラリから、扉の開閉時に外部への逆流が生じていることが目視できた。
A 入口の開閉時に扉のスイングによって内部の煙が外へ出てくることをスモークテスターによって目視できた。
B 喫煙所入り口における気流計の測定からは、喫煙室内に向かい毎秒0.2メートルの気流が常に確保されているとはまったく言えない状況であった。
C 扉が開けられた静止状態において、煙が外へ出てくるのがスモークテスターを使って目視できた。すなわち、この状態において、陰圧が保たれていない、つまり明らかに受動喫煙防止がなされていない。
D 喫煙所から離れた禁煙区域の空気にタバコ煙が混じった異臭を感じた。
E 喫煙所からのタバコ煙の漏れは、喫煙所出入り口ならびにガラリを通じてであった。
室内気排出力の不十分さに加え、ガラリの設置が開口面積の増大をもたらし、結果的に喫煙室室内の陰圧化が妨げられ、タバコ煙が禁煙区域に逆流する大きな原因となっていると考えられた。
以上の所見と考察から本事件におけるガラリ設置工事は受動喫煙防止には効果のなかった誤ったものであると言わざるをえない。
以上は、喫煙室からのタバコ煙の漏れという厚生労働省ガイドラインに違背した事実をもたらした原因にガラリ設置があることを論証したものである。
次に、原告が本件を重視する理由とも関連するが、喫煙所にガラリを設置したことにより排出が増大した喫煙所よりの漏出タバコ煙が禁煙区域に広がった場合の健康被害の大きさが極めて重大であることの論証を述べる。
まず最初に指摘しなければならないことは、厚生労働省の「分煙」ガイドラインを満たすには喫煙室と禁煙区域の境目で喫煙室に向かう秒速0.2メートルの気流があればよしとする間違った解釈が大手を振っているということである。なぜなら、秒速0.2メートルの気流が確保されていても、喫煙室からタバコの煙が漏れて、禁煙区域全体に拡散している状況が極めて多く見られるからである。
さて、喫煙室から煙が漏れていることを、粉塵計を使わないで知る方法があるだろうか?ある。それは人間の嗅覚によってである。
厚生労働省分煙効果判定基準策定検討会報告書(平成14年6月)「4.新しい分煙効果の基準」http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/06/h0607-3.htmlは「喫煙場所から非喫煙場所に環境たばこ煙成分(粒子状物質及びガス状物質)が漏れ出ないこと」を受動喫煙防止の条件としている。それを受けて作られた「職場における喫煙対策のためのガイドライン」では、「視覚・嗅覚による煙の漏れのチェック」を分煙効果の評価項目のひとつとして挙げている(太字引用者)。http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/05/h0509-2.html
それでは、ヒトがタバコの煙の臭いを感ず濃度の閾値はどれくらいだろうか?そしてその濃度での受動喫煙でどれほどの健康影響がもたらされるのだろうか?本意見書では、まずこれらの点について論述したい。
(1) 臭いがわかるタバコ煙濃度
 Junker等(2001年)は、タバコ煙以外の臭い成分を除去した空気にタバコ煙を混ぜて実験をしたところ、タバコ煙濃度が約1µg/m3でも、ヒトはタバコの臭いを感じることがわかった。
【出典】Odor thresholds of sETS obtained from the olfactory experiments showed that a median odor sensation was perceived at very low concentrations equivalent to an ETS-PM2.25 concentration of approximately 0.6-1.4 µg/m3.(嗅覚実験によって得られた副流煙臭知覚閾値データによると、粒子径が2.25μm以下の環境タバコ煙濃度が0.6-1.4 µg/m3という極めて低いレベルでも被験者の半数がタバコのにおいを認識することがわかった。)(Junker MH, Danuser B, Monn C, Koller T. Acute sensory responses of nonsmokers at very low environmental tobacco smoke concentrations in controlled laboratory settings. Environ Health Perspect 109:1045-52,2001)
 
(2) 喫煙が自由に行われているオフィスのタバコ煙濃度
 
 「分煙効果判定基準策定検討会報告書」に添付された資料によれば、喫煙が自由に行われているオフィスのタバコ煙濃度は0.1〜0.2mg/ m3すなわち100〜200µg/m3である。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/06/h0607-3.html#top
 
 
 
(3) 非喫煙者が家庭や職場の受動喫煙で死ぬ生涯リスク
 
 タバコを吸わない者が家庭の受動喫煙でどれだけ余計に死んでいるかを明らかにするため、ニュージーランドと香港で調査が行われた。
【出典】ニュージーランド調査:Hill S, et al.: Mortality among "never smokers" living with smokers: two cohort studies, 1981-4 and 1996-9. BMJ. 328:988, 2004.
香港調査:McGhee SM, et al.: Mortality associated with passive smoking in Hong Kong. BMJ. 330:287,2005.
タバコを吸わない人を選び出し家庭で受動喫煙のある人とない人の死亡率を比べると、家庭で受動喫煙のある人の年間死亡率がニュージーランドで14%、香港で30%高いという結果が出た。収入・持病・学歴・食事内容など死亡率に影響する多くの要因をそろえて計算しても、結果は変わらなかった。日本家庭の受動喫煙死亡率はおそらくニュージーランドと香港の間だろう。
他人の行為のために14%余計に早死にしやすくなるということは重大事件である。なぜかというと、先進国では、ある集団を一生涯追跡しても、特定の環境汚染物質による犠牲者が10万人あたり1人以上出ないように押さえなければならないというルール(環境基準)があるからである(環境省平成14年版環境白書)。一生追跡して10万人あたり1万4千人死ぬリスクは、環境基準の1万4千倍のリスクと表現される。
 受動喫煙の度合いに関しては家庭と職場にあまり差がないから、禁煙でない家庭や職場で蒙る受動喫煙のために非喫煙者が死ぬ生涯リスクは10万人あたり1万〜2万人と見て差し支えない。
 
(4) わずかでもタバコのにおいがする!とわかったときの受動喫煙死亡リスク
 
 タバコ煙濃度が100〜200µg/m3のオフィスでの受動喫煙死生涯リスクが10万人あたり1万〜2万人なのだから、100分の1の濃度=1µg/m3のタバコ煙にさらされたときの受動喫煙死生涯リスクは10万人あたり100人〜200人となる。
 わずかでもタバコのにおいがするというだけで、そこはすでに環境基準を100〜200倍も上回る致死的室内気汚染環境となっているのである。
 ここで一言断っておくが、1µg/m3の濃度でもタバコのにおいがわかると言うのは、他の臭い成分をカットした純粋な実験環境だからであり、様々な臭いが混じっている実際の職場環境では、タバコ煙を知覚する閾値はさらに数倍高濃度となることがじゅうぶん予想される。とすれば現実の職場でタバコのにおいがするとわかったときには、10万人中数百人が受動喫煙死する環境となっていると考えなければならない。
 
(5) 受動喫煙による急性健康障害が起きるタバコ煙濃度
 
(1)で引用したJunker等(2001年)の実験によれば、タバコ煙濃度が4 µg/m3になると、頭痛・めまい・はきけ・目・鼻・のどの刺激症状が発生する。
【出典】(1)と同じ。Observed concentrations facilitating eye, nasal, and throat irritations correspond to an estimated ETS-PM2.25 concentration of about 4.4 µg/m3.( 目・鼻・のどの刺激症状はタバコ煙による微粒子濃度が4.4 µg/m3となったときに出現する)
非喫煙者に不快な症状が発生する濃度(4 µg/m3)は、タバコのにおいがわかる濃度(1 µg/m3)よりもわずかに高いだけである。かすかにタバコの臭いがするというだけで心身の不調が引き起こされるのは、「特異体質」でもなく、「神経質」だからでもない。有害物質に対する正常な生理的反応なのである。
 
 
以上をまとめると次のようになる。
1. 本件におけるガラリ設置は、喫煙所からのタバコ煙の漏れを促進する役割を果たしており、本件におけるガラリ設置は厚生労働省の分煙ガイドラインに違背する。
2. 厚生労働省の分煙基準の要諦は喫煙室から煙が漏れないことにあるのであり、毎秒0.2メートルの気流の確保は副次的参考指標に過ぎない。
3. 書類上形式的に毎秒0.2メートルの気流が確保されていることをもって、厚労省の分煙基準を達成していると主張することは失当である。
4. ヒトの嗅覚は鋭敏であり、1立方メートル当たり100万分の1グラムのオーダーで喫煙所から漏れるわずかなタバコ煙を感知することができる。
5. 1立方メートル当たり100万分の1グラムの濃度のタバコ煙にさらされた場合の生涯死亡リスクは10万人あたり100〜200人である。
6. 喫煙所からわずかでもタバコ煙が漏れるだけで、環境基準を数百倍上回る致死的空気汚染状態になる。
7. 喫煙所よりわずかでもタバコ煙が漏れるだけで、非喫煙者に急性の健康障害が発症する。
8. 職場(屋内)における受動喫煙被害をなくするためには、喫煙室の全廃が必要である。



職場喫煙問題連絡会(Second-hand smoke problems in offices network)ホームにもどる